村上芳正の画稿が、まとまったかたちで現在まで保存されていたのは、誠に幸運事だったと言えよう。これは村上が、自身の挿絵・装幀画制作を、糊口を凌ぐための仕事と割り切って考え、その仕事を引退してからも、それらの作品を売ろうとはしなかったからであるし、だからこそ村上芳正自身も、いったんは「過去の人」になってしまった。まさしく、村上芳正の絵は、書物の商品的消費サイクルのなかで消えてゆき、古本屋の片隅にその面影をとどめるだけとなっていたのである。
その村上芳正の画業が、息を吹き返す切っ掛けにかかわれた私もまた、誠に幸運だった。
その画風から、私は村上芳正に「無口狷介」的なイメージをもっていたのだが、じかに会った村上は、その予想を大きく裏切る、あたりの柔らかな、人の良い、饒舌な人だった。しかし、その口から「本格的な作品が描けなかったので、展覧会を開いたことはありません。挿絵は売り物だと思っていないので、売ったことはないんです」さらには「画集の刊行などありえませんよ」といった趣旨の意想外の話を聞かされ、少なからず驚いた。ひところ、あれだけ活躍した個性派の装幀画家に、展覧会の一度も、画集の1冊も「ない」というのである。そしてさらには「画稿はぜんぶ、押し入れの中に突っ込んであるはずです」と言うのだ。
話がこの段に進むにいたり、当初いちファンとして村上装幀本にサインをもらっておしまいだったはずの私が、村上芳正再評価の企てにのめり込むことになる。
これはあまりにもったいない話であり、このままで良いわけがない。「村上芳正の華麗な画稿を、押し入れの奥で朽ちるにまかせるわけにはいかない」と、そう当たり前に考えたのである。
私が最初に考えたのは、画集の刊行である。三島由紀夫の「豊饒の海」四部作の装幀を担当するなど、ひと頃あれほど活躍した装幀画家なのだから、話の持っていき方しだいでは、画集の1冊くらい出してくれる出版社は今でもあるだろうし、何とかなるだろうと、そう考えた私は、友人の本多正一に助力を求めた。
しかし、出版界の現実は、それほど甘くはなかった。いくつかの出版社に、私の企画を聞いてもらう機会を作ってもらったのだが、編集者個人としては興味は持てても、出版不況の現況で、今となっては「無名」に等しい過去の画家の画集を商業出版するような奇特な出版社は無いだろうという、きわめて厳しい認識が示された。
そこで私は、とりあえず村上芳正の絵と名前を、再度世間に認知してもらう必要があると考え、まずは金のかからないホームページの立ち上げ、次には展覧会を企画した。
展覧会は、ギャラリーオキュルスでの初個展が実現し、続いて市立小樽文学館での展覧会、さらにはアーディッシュギャラリーでの「家畜人ヤプー展」が実現した。すべて、本多正一の個人的な人脈に頼ってであった。
このようにして実績を重ねていく中で、徐々にではあるが、村上芳正の名が浸透・想起されてゆき、何の具体的な展望もなくホームページを立ち上げてから3年で、とうとう念願の画集公刊が内定した。
ユニークな全集や画集の刊行で実績のある中堅出版社から刊行のはこびとなったこの決定版画集は、来年(2013年)後半に予定されている都内某美術館での本格的な回顧展にあわせて刊行するということで、すでに半年も前から内々には決まっていたのだが、なにぶん1年以上先の話なので(鬼が笑ってはいけないと)慎重を期して公表は控えていた。
ともあれ、このように村上芳正の再評価がまた一歩前進したと喜んだのも束の間、ここに来て、思いもかけない奇怪事が出来(しゅったい)したのである。
先日、本多正一の元へ、村上芳正の『知人』を名乗る『朝日書林 荒川義雄』なる「未知の人物」からの書簡が届き、そこには「私は村上芳正の知人だが、先日、村上に会った際、村上が、本多様に預けたままになっている画稿を返して欲しいと言っていたので、頼まれて私が手紙をさし上げた次第。よろしくご配慮願いたい」という趣旨のことが書かれていたのだ。
もともと本多は、私に頼まれて、まったくのボランティア(無料奉仕)で、村上芳正の展覧会の開催や画集の刊行のために、足掛け3年間奔走してくれていたのだし、そのことは村上芳正本人からも、そのくり返しの「感謝の言葉」として承認されている事実だと思っていたのに、この手紙の内容では、まるで本多が村上から画稿(原画)をだまし取ってでもいるかのように受け取れるではないか。
そこで、本多が即座に村上に電話をして事実関係を正したところ、「朝日書林 荒川義雄」とは「古書店」を営む人物で、なんどか世話になったことがあり、先日面談した際に、先方から原稿について尋ねられたので「めぼしいものは、本多正一さんに預けたままだ」と応えたことから、しだいに「返してもらう」という話になって、件の古本屋氏に「任せた」と言うのである。
ここで事実関係を確認しておこう。
本多正一が、村上芳正の画稿(原画)を「預かったまま」というのは、つぎのような事情による。
ホームページの、村上芳正の「プロフィール」にも記してあるとおり、これまでの三度の展覧会は、
・ 2010年秋に初の個展「村上芳正の世界展」をGallery Oculusにて開催。
・ 2011年春に「文学に捧げる花束・村上芳正展」を小樽文学館にて開催。
・ 2011年秋に「家畜人ヤプーの世界 ―― 村上芳正原画展」をアーディッシュgにて開催。
という具合に、おおむね半年おきに開催されており、展覧会開催のための折衝や準備期間を入れれば、ほとんど切れ目なく展覧会の企画が進んでいたことになる。
したがって、オキュルス展のために村上から画稿を預かって以降の経緯は、次のような具合だった。
盛況のうちにオキュルス展が終了して間もなく小樽文学館展が決まったため、村上の画稿はオキュルスから小樽へ直接転送された。その際、私が供出した村上装幀本や、本多が供出した資料も、一緒に小樽に送られている。そして、その次のアーディッシュgへも、画稿その他のすべてが小樽から転送された。そして、アーディッシュgでの展覧会と同時に企画の進められていた都内某美術館での展覧会が、開催はすこし先の話(2013年の夏以降)にはなるものの内定し、その美術館の学芸員の打診によって、某出版社からの画集刊行の話がまとまったのが昨年の暮れ。したがって、すでに昨年末の段階でアーディッシュgから次の展覧会場となる同美術館へ画稿その他はすべて転送され、そこで保管されて現在に至っているのである。(※ ちなみに未決定ではあるが、パリ展の企画も進められている)
もちろん、原稿類の所在については、その都度、本多が村上に連絡をし、承認を受けた上で、このような経緯とあいなった。
この3年間、本多は、展覧会や画集出版などにかんして、毎月のように村上本人と面談していたし、頻繁に電話でのやりとりをしていたから、「原稿を返して欲しい」などという話は「寝耳に水」どころではなく、まさに晴天の霹靂、思いもよらない「第三者による一方的通告」だったのである。
それでも、読者の中には、展覧会場から展覧会場へ転送するような横着なことをせずに、その都度、村上に返納しておれば、このような行き違いも起らなかったのではないかと考える人もあろう。しかし、それは村上芳正の私生活の現状を知らないから、そう思うのである。
われわれの引き受けた使命は、村上芳正の画業を世に知らしめて、再評価を促すことである。それ以上でもそれ以下でもない。
しかし、現実の作業の中では、村上の現在の実生活を無視して話を進めることは出来ない。
そもそも、なぜ村上の画稿が「長年、押し入れにしまい込まれたまま」だったのかと言えば、それは齢八十を越えて、すでに絵の仕事から引退してひさしい無職の村上本人にとっては、自身の画稿はすでに「過去の遺物」でしかなかったからで、身寄りのないに等しい高齢の村上の実生活は、お世辞にも恵まれたものではなかったのである。つまり、村上に過去の画稿を省みる余裕などなく、また現在の住居であるアパートに、絵をキチンと保管しておくスペースなど無かったのだ。
だからこそ、本多正一は、展覧会の開催や画集の刊行にかかわる実務上の必要とも併せ、あたりまえの配慮として原稿類の「現場保管」を、村上の許可を得て行っていた。
そこへいきなり、件の「村上さんに原稿を返してやれ」という趣旨の手紙が、未知の人物から送りつけられてきたのである。
村上芳正の『知人』を名乗る「朝日書林 荒川義雄」氏が、村上芳正とどのように「知人」なのか、もちろん必要とあれば、村上本人にさらに問いただすことは出来るし、荒川氏に具体的な説明を求めることもできる。
しかし、ひとまず私がネット検索して調べたところ、「朝日書林 荒川義雄」氏は、〈「本の街」神田神保町オフィシャルサイト〉で、次のように紹介されていることが判明した。
(http://jimbou.info/town/ab/ab0004.html)
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朝日書林(あさひしょりん)
[文学] 雑誌、書簡、初版本、近代文学
隠れた名作家の作品に注目
古書販売と近代文学の出版も手掛ける
目録はここ数年出していないが、顧客からの厚い信頼を得ているため直接の取引が多い。探求本があれば電話での問い合わせを。文壇には出ないような”裏通り”の作家に強く、古書販売の他に近代文学の出版事業も行っている。
※ 店舗を構えているわけではないので、現地では販売していません。
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さて、読者諸兄が「朝日書林 荒川義雄」氏の行動をどのように解釈するか、それは私のあずかり知らぬところだし、私の推測をここで語ろうとも思わない。きっと「朝日書林 荒川義雄」氏は、「古本屋」や「出版業者」という身分に関係なく「善意のみ」で「仲介」した、ということなのであろう。
しかし、「朝日書林 荒川義雄」氏の真意にかかわりなく、今回のことで私が考えたのは、村上芳正の知名度が上がれば上がるほど、おのずと村上の絵を私蔵したがるコレクターが出てきて、何とかして村上作品を手に入れようとするだろう、という当然の展開だった。そして、そこに需要がうまれれば、それに応えて供給しようとする画商や古書店などの「業者」も蠢動しはじめるということだった。
もちろん、村上芳正の絵は、村上個人の所有物で、その処分をどうしようとそれは村上の自由であり、われわれを含め、他人が口を挟むべきでことではない。
しかし、ここでひとつ重要な事実を紹介しておくと、村上はお世辞にも豊かとは言いがたい生活をしてはいても、「絵(旧稿)を売って、生活費に当てること」については、他ならぬ「本人が拒否」していたのである。
初の個展となったオキュルス展の際「新作を含む、売り物の作品が無ければ、画廊での展覧会は出来ない」という、考えてみれば当たり前な事実が問題として持ち上がったため、「コレクションを散逸させないために、原画は誰にも(私にも)売らない」という当初の「私の方針」には反するけれども「新作が望めない以上、カットなどの小物なら、売ってもいいのではないか」という話になって、村上に相談したところ「それはかまいませんが、売り上げに関しては私は一銭もいりませんので、あなた方と画廊さんで折半して下さい」という、思いもよらない返事が返ってきたのである。
もちろん、私たちは当初から「いっさい儲けない。基本持ち出しの完全ボランティア」という方針でやっていたので、「それでは困る」といって事情を尋ねたところ、言い渋ったものの、村上は現在、高齢で身寄もなく無職ということで公的補助をうけて生活しているため、おかしな「臨時収入」があってはかえって面倒なのだと説明した。
つまり、これまでは押し入れの奥につっこまれていただけの「資産価値ゼロ」の画稿に値がついて、それが公然と売買されたりすると、その「所得」の発生によって、これまでの生活がおかしなことになってしまいかねず、この歳で今更そんなことで煩わされたくないのだ、という至極もっともな話だったのだ。
そこで私たちは、原画販売案を撤回して、複製リトグラフを私の出資で作り、それを売って画廊への支払いに当てることにし、村上もこれを承認した。もちろん、画廊への支払い以上に儲けがたくさん出ては困るので、展覧会のダイレクトメールのほかに無料配布のパンフレットを作ったり、複製リトグラフ用のタトウを作るなど、過分な儲けが出ないよう、おかしな苦労もしたのである。
このようなしだいで、もともと村上の画稿については「お金のために処分する」という選択肢は無かったし、万が一の場合に相続させる身寄りもなかったため、私と本多は「いま村上の手元に残っている原稿はこのまま散逸させず、しかるべき施設(美術館など)に収蔵して、末永く保管してもらおう」と一決、その線にそって可能性のありそうな美術館や文学館に打診を重ねていたのである。
ここで、再確認しておけば、私も本多正一も、村上とのつきあいが始まって以降、村上芳正から作品をせしめようとしたことなど、一度もない。私が本多に紹介され村上に知り合って幾度目かの際に、村上が気をきかせて、むかし作ったという版画とポスターを二人に下さったが、それ以外はいっさい何も受け取っていないし、買ってもいない。買い取りを打診したこともない。
私は、もともと古書や絵画のコレクターだけれども、村上に関しては立場が立場なので、第三者から邪推されかねない直接購入などする気はさらさらなかった。いまだ相場の定まっていない村上の絵を私が安価に入手することは容易に可能だったけれど、だからこそそれはしないと決めて、ボランティアの支援に徹していたのである。
同様に、プロのホームページ制作者である竹上晶にも「我々は、あくまでも村上芳正のファンとして、村上さんのために働くのだから、自身は黒衣(くろご)に徹する」という趣旨に沿って、ホームページの制作や「ヤプー展」の記念画集の編集について、うるさく注文をつけこそすれ、報酬は一銭も払わなかった。こうしたストイックさが、第三者には窺い知れないであろう、我々の基本方針だったのだ。
このようにして大切にしてきた村上芳正コレクションを「散逸させるわけにはいかない」と私たちが考えるのは、当然の感情だと理解してもらえると思う。
すでに村上芳正は九十歳に達しており、それでいて生来の世慣れない人柄の良さと身寄りのないのが祟って、いつ誰に騙されてもおかしくない状態だというのが、私の偽らざる評価なのだが、いくら村上の絵が村上の自由になるものだとは言え、せっかくのコレクションが有象無象に食い荒らされるようにして散逸するのを、みすみす拱手傍観するわけにはいかない。そんな「危機意識の必要性」を教えてもらったという点では、今回の「朝日書林 荒川義雄」氏には、むしろ感謝してさえいるのだ。
幸い、村上芳正コレクションの寄託を受けても良いと言ってくれている公立施設もあり、もとより村上にも異存はないとのことなので、今はその線で話を進めている最中である。
私たちが、村上芳正再評価プロジェクトに取り組む以前の話。本多正一が編集した『幻影城の時代 完全版』(講談社)によって、村上芳正の存命が世に伝えられると、すぐに三島由紀夫コレクターが「業者」を介して村上に直接コンタクトをとってきて、当ホームページでも紹介している三島由紀夫の「村上芳正賛」原稿や「豊饒の海」の装幀原稿を、直接交渉で購入するということがあった。この「売買」はまったく正当なもので、これについてとやかく言うつもりはない。しかし、それらがその段階で「私蔵」されてしまったために、その後の三度の展覧会で、それらの展示が叶わなかったというのも事実である。
もちろん、件のコレクター氏に貸し出しを要請すればご協力いただけるかもしれないし、今後必要があれば貸し出しを要請することもあるだろう。しかし、私自身、コレクターとしての本音で言えば、いったん私的に手に入れたものを、他人に無償で貸し出すことなどしたくはない。まして、万が一にも汚損させられたら取りかえしがつかないのだから、私なら相手がよほどしっかりした公的機関で、高額の保険でもかけてくれないかぎり、貸し出しは丁重にお断りするだろう、ということなのだ。
ちなみに、ここに登場する「仲介業者」こそが、先の「朝日書林 荒川義雄」氏であることを、今回村上に確認した。つい先日も、村上が白内障の治療で通院が必要となった際には、「朝日書林 荒川義雄」氏が、親切にも車を出してくれさえしたそうで、足下のおぼつかない村上は、とても感謝して恩義を感じたそうだ。
ともあれ、三島の「村上芳正賛」原稿や「豊饒の海」の装幀原稿などと同様に、村上の画稿がいったん「人手に渡ってしまう」と、そのあとで村上芳正コレクションを再結集して一堂に展示するなどといったことは、そう簡単には出来ないのである。
だからこそ、「業者」を介して「不特定多数」の手に村上作品が渡って「散逸」する(追跡不能になる)といった事態は、是が非でもわれわれが食い止めなけれなならないと、そう考える。
私が「忘れ去られた村上芳正」の現実を知って、3年前にわが使命として思い定めたのは「展覧会の一度くらい開いてあげたい。画集の1冊くらい出してあげたい」ということだったが、それが来年中には実現するめどが大筋で立った今、私がやるべきことは「村上芳正コレクションの行方」を確たるものにすることだけだと言っても良いだろう。
そのためにも、私はこうして闘っている。
多くの人の好意と協力に支えられて、ここまでたどり着いた「村上芳正再評価」プロジェクトの成果を、ここでむざむざ水泡に帰すわけにはいかないのだ。
「朝日書林 荒川義雄」氏について実名表記したのも、これまで公にしなかった「村上芳正の私生活」の一端を明かしたのも、すべては事実関係を明らかにしたいがためである。
しかし、それもこれもすべては結局のところ、村上芳正の画業をしっかりと後の世に伝えていくためなのだ。
2010年6月19日
【追記】 語られるべき〈美談〉
上の文章を公開する前段の手続きとして、今日(2012年6月22日)、直接「朝日書林 荒川義雄」氏に電話をして、事情を確認し、先方の言い分を聴くとともに、本多正一に対する失礼な手紙に関して、正式な謝罪を要求した。
先方(荒川氏)の言い分としては「本多さんたちが、村上さんの展覧会をたびたび開催しておられるのは、よく承知していました。ただ、宇都宮で展覧会が開かれたのを村上さんは知らされていなかったとおっしゃっていたのと、村上さんに預かり証も渡さずに2年間も原稿を預けたままで、村上さんがそろそろ返して欲しいというようなことをおっしゃって、私に本多さんへの伝達を依頼されたので、お手紙を書いたのです」というような返事であった。
そこで私は「宇都宮での展覧会は、村上さんの原画を1枚もつかっていないリトグラフ展です。村上さんの許可を得て作ったリトグラフの売れ残りを売るための展覧会で、原画とは関係ないので、特別に連絡は入れてなかったのでしょう。また、私たちと村上さんとのつきあいは、あなた方業者が誰も村上さんの存命をしらない時期から始まっており、言い換えれば、原画に市場価値などなかったときからのつきあいです。だから、展覧会のために原画を借りるにあたっても、我々は貴方のような業者ではないから、あくまでも口約束の信頼関係で借り受けただけで、なんら問題はありません。それにしても、リトグラフ展とは別に、2年間に3回も原画展を開けば、いちいち村上さんに原稿を返納していられないくらいのこと、あなたにはわかりませんか? それにあなたなら村上さんのお宅に原画をきちんと保管しておく場所のないこともご存知ですよね? それなのに、村上さんに原稿を返させて、あなたはそれを、いったいどうするつもりだったのです?」と尋ねた。
すると荒川氏は「私のお客さんで、三島由紀夫の日本一のコレクターであり研究家でもある方がいます。この人が、村上さん作品を預かってもいいと言ってくれているので、お任せしようと考えていたのです。彼は信用できる人物ですから、原稿を転売して散逸させるようなこともありません。彼が村上さんの原稿を預かろうというのは、いずれ『三島由紀夫と村上芳正展』みたいな展覧会を開催しようと考えているからだそうで、それが実現した後、いずれは村上さんの原稿を美術館に寄贈しようとも考えているそうです」との説明であった。
私は「村上コレクションの散逸を怖れて、そのようなことを考えておられたのなら、その心配はありません。すでにわれわれの方で、美術館などの公的な施設への寄託寄贈にむけての具体的な折衝を進めていますから、個人のコレクターに任せる必要などありません。そもそも、その人に預けると言っても、それは金銭の授受なしで預かるというような話ではなく、そのコレクター氏が買い取るということでしょう?」と尋ねると、荒川氏は「そうです」と言うので、私は「それでは、著作権は村上さんに残っても、所有権や管理権はその人に移行してしまうのだから、現実的には、その人が売りたいと思えば、いつでも売れるわけですよ。あなたにそれを止める権利がありますか?」と問い質すと、荒川氏は「それはありません。しかし、そのI氏は信頼できる人ですから転売するようなことはしません」などと素人くさいことを言うので、私はさらに「しかし、そんな口約束になんの意味があります? その人が将来お金に困ったり、亡くなって遺族に相続されたりしたら、売却処分されてしまう可能性は極めて高いが、あなたにはそれを止めだてする権利はないでしょう? それとも、永久に売却しませんという誓約書でも書かせるんですか?」と尋ねると「そこまでは出来ません」という返事。
そこで私は「それなら、そんな個人のコレクターに売却するという選択肢はありえません。最後に美術館に寄贈するというのだったら、われわれが進めているように、最初から美術館などの公的施設に預けた方が絶対に安全ですし、展覧会が開きたいということであれば、なにも個人で買い取らずとも、収蔵先に正規のお手続きで貸し出し要請すれば、その人であれ我々にであれ、公平に貸し出してくれますよ。そういうことだから、村上さんの原稿類については、我々に任せていただけますよね」と念を押したところ、荒川氏は「そういう話なのであれば」と承諾した。
「このようにわれわれは、ちゃんと先のことまで考えて、村上芳正コレクションを守ろうと頑張っています。特に本多がそうした実務のために奔走してくれている。それをあなたのような方から、いきなりあのようなお門違いな手紙を送りつけられた。本多が怒るのは当然で、あなたが本多にたいして無礼を働いたのは明らかです。ですから、今度は本多に謝罪文を送ってください」と私が要求すると、荒川氏は当初「しかし、私は、村上さんからそんな詳しい話は何も聞かされていなかったし、頼まれて書いただけだから」と渋るので、私は「要は、事情も知らずに、頼まれたから手紙を書いたと言うんですね? でも、子供じゃあるまいし、頼まれたから書いただけ、では済まないでしょう。手紙を現に書いたのは貴方で、あなたにはそれを断ることだって出来たのだし、引き受けたのはあなたの意思なんだから、それはあなたに選択責任のあることで、手紙を書いて出した、直接の行為責任はあなたにある。それともあなたは、すべての責任は村上さんにあるとでも言うのですか?」と言う、荒川氏は「そんなことは言っていません」と言いつつ尚も言い訳を重ねたが、最後は本多に謝罪文を書くことになった。
さて、ここで私が最後に発した質問に対し、荒川氏から驚くような返事が返ってきた。
「ところで、あなたは村上さんの知人ということですが、村上さんとつきあいだしたのは、当然、古本業者としてですよね? なら、村上さんのコレクションを三島由紀夫コレクター氏に売却するにあたっては、仲介料を取るんでしょう?」
すると荒川氏は「それはいただきません。村上さんの生活が苦しいことは知っていますから、あくまでも紹介するだけです」と言うのである。
その思いがけない回答に私は「しかし、そのコレクター氏への三島原稿の売却に当たっては、あなたが仲介し、村上さんにはかなり高額な代金が支払われたと聞いていますよ。その時は当然、あなたは仲介料を受け取ったのでしょう?」と質問を重ねると、荒川氏は「いいえ、わたしは一切うけとっておりません」と言うのである。(※ 三島原稿および「豊饒の海」装幀原稿売却の際には、コレクター氏から村上に、3ケタに達する代金が支払われている)
あまりにも意外な返事に、私は忌憚なく「それを信じろと言うんですか? あなたは業者として村上さんと知り合い、つきあっているんでしょう? だったら、当然、仲介した際に、三島コレクターさんから相応の仕事料を受け取るのはあたりまえだし、何も受け取っていないなんて話、だれも信用しませんよ」と言うと、荒川氏は「たしかに最初は業者として知り合いましたが、つきあううちに村上さんお人柄や生活状況を知るにいたって、お金を受け取るわけにはいかなくなったんですよ。だから、三島原稿の売却に当たっても、仲介料は受け取っておりません」と言うのである。
私は率直な感想として「にわかには信じがたい話ですが、それは何処に出しても恥ずかしくない話だということですね?」と確認すると、荒川氏は「ええ、嘘ではありません」と断言するので、私には所詮うかがい知れない三島原稿売却の際の事情に関して、嘘だホントだと言い争っても意味が無いと判断し、ここではそれを荒川氏の言い分として聞きいれておくことにした。
「わかりました。まあ、事実はわかりませんし、世間がそれを聞いてどう判断するかは知りませんが、ともあれ、われわれが公的な施設に村上コレクションを収蔵するにあたっては、とうぜんお金なんか一切動きません。われわれの場合は、展覧会にしろ原稿の収蔵にしろ、貴方みたいに個人的に内々でやってるわけではなく、第三者にわかるかたちでやっていますから。それに、村上さんから原稿を預かるにあたって特に書類を作っていないとは言っても、展覧会場となった公的な施設からは預かり状も出されていますよ。あなたは村上さんの原稿の売却に関して、いっさい仲介料を受け取っていないとおっしゃいますが、もとより我々はアマチュアだから、自腹の持ち出しこそすれ、村上さんから礼金をもらったり、儲けたりなんかしていない。だから、事情がわかったからには、今後、われわれの努力に水を差すような横やりは入れないでいただきたい。
われわれが心配しているのは、展覧会をくり返す中で、だんだん村上芳正さんの知名度が上がっていくと同時に、村上さんの高齢もあって、古本屋などの業者が、村上作品に群がって、せっかくの作品が散逸することです。あなたは古本屋だから、そのあたりの事情はわかりますよね?」と、念押しの確認をすると荒川氏も同意してくれたので、今回の件は、荒川氏の本多正一への謝罪文の到着をもって一件落着ということで話をつけることにしたのである。
ちなみに、荒川氏が本多正一に手紙を送るにあたっての、荒川氏と村上芳正の二者間のやりとりについては、村上には村上なりの、すこし趣の違った言い分があるのだが、それをここで明かすことはしない。
荒川氏が「村上コレクションからの撤退」を意思表示したのだから、公表して無駄に水掛け論を重ねる必要もないだろうとの判断からである。
それよりも、この追記では「古本業者でありながら、村上芳正と親しく接する中で、村上の人柄にうたれて、損得抜きで村上のために動いた」という荒川氏の言い分をそのまま紹介することで、「朝日書林 荒川義雄」氏による「美談」を世に知らしめることの方が、よほど建設的であろうと判断したのである。
2010年6月22日