村上芳正という画家を知らない読書人の多いことに、まず驚いた。独自の世界を展開して一世を風靡した装幀画家なのだから、世間一般の人や若者ならばともかく、相応の年齢に達した読書家や蔵書家なら当然知っていると、そう思い込んでいた。だが、必ずしもそうではないという現実を、私は最近になって知らされ、愕然とさせられた。
たしかに、三島由紀夫晩年の代表作である「豊饒の海」四部作の装幀を手がけた画家にしては、画集というものを見たことがない。しかし、村上芳正に画集が無いなんてことがありえるのか?
だが、じじつ存在しないのだ。近年、村上芳正と直接お会いする機会を得てうかがったところによると、村上は画集を刊行したこともなければ、展覧会すら開いたこともないのだという。つまり、もっぱら、本の装幀やレコードジャケット、映画ポスターなどのために絵を描いてきたのであり、自分の作品として自分の絵を一度も売ったことがないというのである。これは、プロの画家としては、驚くべき事実と言ってよいだろう。
村上に、どのような意志があって、そのような道を選んだのか、それはここでは問題ではない。問題なのは、村上芳正のそうしたスタイルが災いして、今では彼の画業を知る者がほとんどいない、という現実なのである。
村上芳正がかつて主に活躍した出版業界ですらこの始末なのだから、日本の美術界における村上の知名度も推して知るべしなのだが、むろん芸術家の真価は、知名度などで量れはしない。ことに、研ぎすまされた個性をもつ芸術家は、おのずと俗人の理解を超えてしまうところがあって、村上芳正の世界もまたそうしたものなのだから、一般的認知度が低いのはやむを得ないのだとも言えよう。
私の調べた範囲で言えば、これまでに村上芳正の特集を組んだ雑誌は、探偵小説専門誌『幻影城』の1978年6-7月号のみで、美術雑誌での特集はなかったようだ。
しかし、『幻影城』誌の特集は、昭和38年5月に三島由紀夫が村上芳正に直接贈った、貴重なオマージュ原稿を初紹介して、貴重な資料を提供している。この写真では、文章の内容が読み取りづらいのだが、このたびは実物を当たることで、その内容を確認することが叶った。
三島は、この「村上芳正賛」のなかで、村上芳正の魅力を、次のように記している。
『村上芳正氏の画業は、ひどく反時代的なもので、時代の流行にも一般の好尚にも一切かまはず、ひたすら自分の個性を純粋に蒸溜し、自分の毒を精錬し、人知れぬ鬱屈を繊細正確に線の戯れに賭けた密室の作業である。』(※原文は分かち書き)
至言である。
村上芳正は、いわゆる「美術のための美術作品」を描きはしなかったが、しかし、すべてではないにしろ、彼の作品、特に代表作とされる作品は、まちがいなく「村上芳正の世界」そのものであり、決して書物やレコードや映画を飾るものとしての位置になど止まってはおらず、むしろ村上の絵がそうした商品のイメージを善かれ悪しかれ規定し「呪縛している」とさえ言えるだろう。つまり、村上芳正の作品は、村上自身の自意識の在り様にかかわりなく、立派に「自立した芸術作品」なのである。
さて、そんな「村上芳正の世界」を、上記『幻影城』誌での特集に寄稿した日影丈吉は、次のように紹介している。
『 この人は暑中見舞の葉書にも薔薇を描いて来る薔薇の好きな画家だ。が、棘を描き落したことはない。むしろ薔薇の花よりも青い棘や、先の赤いたくましい棘に魅力を感じるのではないかと思えるほどだ。それどころか彼は匂い草のように乾燥した薔薇を好んで描く。バラ線のように固い薔薇の鉄索で空間を縛るのを好む。
その空間はルネッサンスの先人に倣う極限の空間の複本である。それを彼は彼のミニ・コスモスのすべての細胞を涸らし、針金とビニール線の筋肉索に禁欲的な男の皮膚を着せ、かれらの悲しげな裸身に、ヒースと霞草と枯れた薔薇の冠をかぶせたりしながら試作する。彼における人間は、これら痛ましい分裂した男性群像の形しか取らない。彼も美を被虐の立場におき芸術を可虐の立場におく制作者、苦しみつつ楽しむ者の一人だからか。
だが批評や画論をやるつもりは私にはなかった。いつか彼は私の小説の挿絵をたのまれたとき、その不安を率直に訴える謙虚な便りをくれた。それは優しさにあふれたロマンチストの手紙だった。そうした人間的な優しさと冷徹な線描世界とのあいだに、たぶん村上芳正という人はいるのだろうと思う。』
(「村上芳正さんの手紙」より)
こちらもまた「村上芳正の世界」を文章化して、過不足のない名文である。
しかし、自堕落な欲望が肯定され推奨される高度資本主義の日本社会において、あるいは若者の欲望消費における「動物化」(東浩紀)が指摘される今日の日本において、『美を被虐の立場におき芸術を可虐の立場におく制作者、苦しみつつ楽しむ者の一人』の作品が、一般的な人気を博すことなど今後もあり得ない、と私にはそう思える。
しかしだからこそ、村上芳正の蒼白き世界に選ばれた少数者が、細々とでもこの「特異な美的世界」の魅力を語り継いで行かなければならないのではないか。先の「村上芳正賛」を、三島は次のように締めくくっている。『かういふ画業こそ 少数の理解者で、まづ守り立ててゆく必要があると思ふ。』
当ホームページを開設するにあたっての、私たち関係者の想いもまた、こうしたところに発する。我々は、村上芳正という「薔薇の鉄索」に魅せられ絡めとられた、美的俘虜なのである。
2010年5月1日