- (01) 現実を直視し突き詰めた先に立ち現れる幻想にこそ、意味も価値もある、という趣旨のことを中井英夫が言っている。村上芳正の幻想的ヴィジョンも、決して現実逃避ではない。あの苦悶と恍惚が、その証拠だ。
- (02) たとえば、ジャン・ジュネと村上芳正の接点を、ゲイの美学といったところに求めるのも、もちろん間違いではない。しかし、両者は社会の底辺に生きる人たちを見てきたし、虐殺された人たちを見てきた。シャティーラで、長崎で、山をなす死骸を、その目に焼き付けてきた。
- (03) たとえば、バタイユ的な「禁止と侵犯」、「死とエロティシズム」。どちらか一方ではない。両極に引き裂かれる欲望の果てにこそ、聖性は立ち現れる。村上芳正の描きだすエロティシズムもまた、そうしたものに違いない。
- (04) 誰のために描くか。村上芳正は平然と「印刷されると、私の線はつぶれて3倍くらいになってます。その方が一見したところ、迫力がある」と認めた。それでも、商売的には割に合わない、印刷に不向きな極細線を描きつづけたのである。彼もまた「画狂人」。
- (05) 「外観はごく普通のアパートメントである。しかし、外廊下の突き当たり近くに籐の衝立が立てられ、一歩その先に踏み込むと、異世界が広がっているのだった。」と皆川博子は証言する。金は無くとも、生活に埋没したりはしない、村上芳正の「美の結界」。
- (06) 連城三紀彦の代表作は、直木賞受賞作の『恋文』かも知れない。しかし、今も連城を読んでいる読者にとっては、連城は「大正ロマン」ミステリの作家なのではないか。それは、初期の「花葬シリーズ」のインパクトもあるだろうが、村上芳正の装幀が、連城三紀彦のイメージを決定づけたからでもあろう。
- (07) 村上芳正の描く女性は、人間ではない。性別を超えた存在。ある種の「神」である。彼女には、血液ではなく、キラキラと澄み切った水が流れている。彼女には体温がない。温かくも冷たくもない。
- (08) 薔薇茎に戒められて、眉根をよせる男たち。村上芳正の描く男たちは、生身で生きる痛苦に身悶えしながら、その中にこそ快楽を見出しているかのようだ。女性像が、肉体を捨象した「観念としての女性」であるとするなら、彼らはその対極にある。生きることの苦痛と快楽を、その身に一体化させている。
- (09) 『家畜人ヤプー』に絵をつけた画家は、それぞれに「美しく冷たい女」を描くことのできる人たちだった。しかし、村上芳正のような「月の女神」を描けた人は、ついにいない。この作品のビジュアルイメージを決したのは村上芳正だと断じても、少なくとも画家たちの側から注文がつくことはあるまい。
- (10) 平岡公威という虚弱な少年が長じた後、三島由紀夫という過剰に構築された肉体を誇示する小説家になったように、過剰とはしばしば「満たされない世界」への反動形成として生み出される。村上芳正の、過剰に華麗な世界も、美への耽溺も、村上が生きた現実の陰画なのであろう。
- (11) 村上芳正が装幀を担当した作家は「過剰なエロティシズム=過剰な情念」を持った作家である。枯れた作家や、生活臭のつよい小市民的な作家は、基本的にいない。また、一般にそういう作家だと評価されていたとしても、そこには収まりきらない何かを持っているのではないか。
- (12) 「美は乱調にあり」アナキスト大杉栄の言葉であり、瀬戸内晴美の小説タイトルでもある。瀬戸内は、女として「生の過剰」と対峙して、仏門に入った人。そんな瀬戸内の本を、村上芳正の絵が飾ったのは、偶然ではない。「乱調」とは「美の過剰」。それは、グロテスクなまでの「美」なのである。
- (13) 不倫恋愛を描いて一大ブームを巻き起こした渡辺淳一の『失楽園』。人が不倫恋愛に惹かれるのは、それがまさに「倫理によって禁止されたものの侵犯」だからである。つまり、バタイユの言うとおり、エロティシズムは「禁止と侵犯の緊張関係」の中に存する。
- なればこそ、「不道徳」や「反道徳」にではなく、「道徳」と「倫理的潔癖症」にこそ、エロスの最大の契機がある。そして、そこにこそマゾヒズムも生起する。エロスを遠ざけ、堪えることによって、逆説的にエロスに最接近する。村上芳正のエロティシズムが、極めて禁欲的である所以である。
- (14) 三島由紀夫の見かけに騙されてはならない。三島は死ぬまで、繊細で真面目で弱い「少年」だった。だから強くなろうとした。爽やかでたくましく男を、「英雄」を演じようとした。三島が、村上芳正の絵に惹かれたのも、そこに『繊細で、真面目で、弱い「少年」』の「孤独」を見、共感したからなのだろう。
- (15) 「少年は少年とねむるうす青き水仙の葉のごとくならびて」――『短歌研究』誌の編集長であった中井英夫によって、世に送り出された歌人、葛原妙子の名高い作である。この葛原からの影響の濃かった詩人が多田智満子であり、その訳書に、マルグリット・ユルスナールの『ハドリアヌス帝の回想』がある。
- (16) 『ハドリアヌス帝の回想』おける、硬質にして華麗な訳文を読んだ三島由紀夫は「多田智満子さんって……あれは、ほんとは男なんだろ」と信じて疑わなかったという。その多田には、村上芳正との共著『四面道』がある。「硬質にして華麗な」とは、まさに村上のペン画のためにあるような形容であろう。
- (17) 芸術家なんて、たいていが自意識過剰。作品才能の評価とは別に、その人柄を問えば、鼻持ちならぬ俗物も少なくない。だが、村上芳正は違う。人への細やかな心遣いもさることながら、慎ましい生活の片隅にさえ、ささやかな美を見いだし感動する心を失わなかった村上は、まさに「美の使徒」であった。
- (18) 「彼は匂い草のように乾燥した薔薇を好んで描く」という、日影丈吉の指摘は注目に値する。露の滴るような艶やかな薔薇の美しさならば、誰にでも描けよう。しかし、干涸びた薔薇に、そのような通俗性は微塵も無い。そこに凝縮された村上芳正の美学を嗅ぎとるためには、相応の精神的洗練が必要である。
- (19) 村上芳正の描く「棘茎に戒められて苦悶する男」も「花々に飾られて瞑黙する男」も、そのベクトルこそ違えど、共に「陶酔的恍惚」の表現だと言えよう。そんな村上が「阿片の魔性と宿命の悲劇」の作家 赤江瀑の著作を飾ったのは、それこそ宿命的である。
- (20) 村上が装幀した日本作家を眺めていても気づかないが、海外作家に目を転ずると、ジュネ、バタイユ、バロウズといった濃厚過激な作家がいる反面、オールコットやモンゴメリといった少女小説作家もいて、その両極性に気づかされる。そう。村上芳正は「貞潔とエロス」の同居した「ヤヌスの双面神」なのだ。
- (21) 村上が装幀した作家の一人に、北原綴がいる。彼は昭和62年に発覚した通貨偽造と強盗殺人の犯人として、今も塀の中にいる。北原には叙情的な児童文学作品がある反面、代表作『薔薇館の神々』では「退廃と狂気」を滲ませた。つまり彼もまた「ヤヌスの双面神」。村上芳正に惹かれたのも、偶然ではない。
- (22) 村上芳正は画題として、人や植物を好み、鳥獣を好まない。様式的平面構成を好み、立体、固体、重量感のあるものを好まず、遠近法的三次元構成を好まない。鮮やかで淡い色彩を好み、原色の強さや重い色調を好まない。だから、三島由紀夫の意向を強く受けた「豊饒の海」の装幀は、少しも村上らしくない。
- (23) 探偵小説誌『幻影城』の編集長島崎博が、村上芳正に挿絵を依頼したのは、島崎自身、三島由紀夫書誌を作成した三島研究家として、村上の仕事に注目していたからであろうが、それにしても、この人選は卓抜であった。探偵小説の本質は、見かけと本質の落差にあり、村上の絵にも二面性の落差があるからだ。
- (24) 村上芳正の描く女に感情表出は無い。男には苦悩だけが与えられている。だか、生物の根源的感覚が「快不快」であり、それが刺激という痛覚で構成される以上、苦痛はすべての感情価値の根源であり、そこにすべてが折り込まれいる。私たちは、苦痛苦悩の通路の先にしか、女神たちの完全世界に達しえない。
- (25) 連城三紀彦の短編「戻り川心中」は、人が如何に見かけに酔い、ありがちな物語に酔うかを、残酷なまでに暴きたてる。つまり連城は、人間の外面と内面を、容赦なく裏返してみせる。どんでん返しする。村上芳正の描く端正な男女は、読者を裏切る美しい外面にふさわしい。その美しさは、内面を窺わせない。
- (26) 村上芳正の、繊細かつ時に執拗なまでの描き込みは、絵にボリュームを与えはしない。それは徹底的に紙の表面をなぞり、埋め尽くしていく。あたかもペン先という針で刻み込まれる刺青。肌をくまなく撫で回す愛撫。だからこそそれは、目をそむけたくなるほどに、苦痛なまでに、過剰にエロチックなのだ。
- (27) 展覧会場で村上芳正その人に会った者は、予想した作家像に裏切られたのではないか。あのような絵を描く人だ、沈鬱狷介な芸術家にちがいないという予想である。現実の村上は、繊細温和で気配りのある常識人である。だか、そちらが「真の姿」だと、いったい誰に言えよう。真の姿は、絵の中にこそある。
※ 本稿は、2011年10月5日から同年11月13日まで、twitter「barano_tessaku」(https://twitter.com/barano_tessaku)に連載したものをまとめたものです。
2011年11月13日