赤江瀑『美神たちの黄泉』解説

赤江瀑『美神たちの黄泉』解説

 月の世界に人間が行こうと行くまいと所詮この世は残酷、無慈悲なものである。神の試練というべきか、まったなしの天災で驚愕動転し、なまぐさい人問模様は、ますますねじれにねじれる。これから老いさらばえても長寿国のこととて暇をもてあますこと必定、なればとびっきり妖しい夢のひとつも、極彩色の夢のひとつもみるともなれば、テレビ、映画、ビデオなどが最早(もはや)やたらと仰々しく動きわめきちらす代物となりつつある時、古い王国の末裔さながらの品格と強靱さと、あえかにゆらぐ虞美人草の花のような「優雅」さをあわせもつ唯一の作家「赤江瀑」の「ものがたり」に接する以外はないとおもう。

 逸楽と豪奢と静寂。赤江さんの呪術によって「美神たちの黄泉」の青春像はミステリアスでまことになやましい。若者たちのむせかえるような汗のにおいがする。甘美な毒はいつものように身体にしみとおってゆく。その毒は僕にとってゴディバのチョコレート(プリンセスダーク。コンテツス。ナッツビタ――。のたぐい)なぞのようになめらかで芳醇(ほうじゅん)な香りがする。
 一九八六年風にいえば、足立健祐はルパート・エヴレット(映画「アナザカントリ」主演男優)みたいな美貌と肉体の所有者なのだろうか。官能まっさかりの裸身を晒(さ)らす部屋はどぎつい色彩がない。一年中週二回届けられる白い薔薇の束がどさりと大きなガラスの壷に投げ入れられているかも知れぬ。音楽は、 日毎夜毎(ひごとよご)ブライアン・イーノの曲「サーズデイ・アフタヌーン」がひくくながれているのであろうか。
 蒼ざめた二木弾正がぴったりと、くっついてしまった山名湄夫。廃屋の奈落の底での「嫉妬」は単なる嫉妬だったのだろうか。同性でもまぶしい存在だった健祐への憧憬がどこかにくすぶり続けていたのではないかとひとりムリにこじつける。舞台の二木弾正を刺した時の快感と絶望はどうであったろう。湄夫の屈折した年月をおもうにつけ、切ない。
 芝居小屋の中を最後のまつりのために精いっぱいの情熱で敏捷にかけめぐったそのひとのコットンパンツにランニングシャツ姿が眼にうかぶ。
 「見られる」ことの陶酔は、自らの体臭ですら熱愛するようになったのでなかったろうか。己が官能をひとりで貪(むさぼり)りつくして健祐はしたたかに生きたつもりでもその終末は案外近いのではないだろうかと。大輪の白い薔薇は、いたみやすくもろいことを賢明な彼は充分に知っている筈であるから。

 沈みゆく陽が海ぞいの館(やかた)を金色に菫(すみれ)色に染める時、館の主人(あるじ)赤江さんは紫煙くゆらせながら「アナべル・リイ」の詩でもくちずさまれるのであろうか。
 否、詩なぞよりも、赤江さんがいちばん好きなものは、血、血のしたたりかもしれない。鮮烈な若い血を求めて、もしかしたら魅惑的なドラキュラ伯爵になり、海を渡られるのかもしれない。
 と、カバーの絵を描きながら、そんな思いにひたりこんでしまう。

村上昂(画家)

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